テーマ:能登半島地震でのJMATやまぐちの活動について

 日 時 令和7年1月9日(木)14:30~15:20
 場 所 山口県医師会6階 会議室

加藤会長挨拶

 昨年の1月1日に令和6年能登半島地震が発生し、その後すぐに災害派遣医療チーム(DMAT)が全国から派遣されたことはご存知だと思う。DMATの後にJMATが全国から支援に入っているが、JMATのことはあまりご存知ではないのかと思う。このJMATは、能登半島地震では山口県から4チームが派遣されている。
 JMATは日本医師会災害医療チームのことで、Japan Medical Association Teamの略である。このJMATは東日本大震災が発生した2011年に創設されたが、当時は支援体制や保証が十分ではなかったため、小田県医師会長(当時)がプロジェクトチームを立ち上げ、「JMATやまぐち」を2014年に発足させた。支援体制や保証を充実させ、いつ災害が発生しても駆けつけられるよう、毎年研修会を開催している。この研修会には医師だけではなく、看護師、事務職員、薬剤師、歯科医師、臨床検査技師、理学療法士、臨床工学技士など非常に多職種の方々が参加されている。このなかで、本日はJMATやまぐちの創設時から携わっていただいており、統括DMAT隊員で山口県災害医療コーディネーターを務めておられる、三田尻病院の豊田先生にJMATやまぐちについてお話をしていただく。県民の皆様に、JMATやまぐちの活動を知っていただくとともに、山口県も例外ではなく、起こってほしくはないが、災害が起こった時には、JMATやまぐちが災害医療に関して、皆さんの支えになると思っているので、備えの一助となることを祈念して、私の挨拶とさせていただく。

概要説明:(医)神徳会三田尻病院院長 豊田秀二 先生

 令和6年1月1日の午後4時10分に能登半島地下16キロを震源とするマグニチュード7.6、最大震度7を記録する地震が発生した。この地震により日本海沿岸の広範囲に津波が襲来したほか、奥能登地域を中心に土砂災害、火災、液状化現象、家屋倒壊、交通網の寸断が発生し、甚大な被害をもたらしたことはまだ記憶に新しいかと思われる。基部の狭い半島での大規模災害であったこと、道路が大きく寸断されてしまったことにより、DMAT等による初期の災害医療展開も非常に難しい状況にあった。
 山口県からは、JMATやまぐちとして4チームが出動している。JMATの支援は、初期から先遣JMATなどによる小規模な支援があったが、主体的には1月の下旬から徐々に規模を拡大している。山口県からは2月に4チーム、14名の隊員を石川県に派遣した。長門総合病院の整形外科医である谷先生をリーダーとしたチームは、能登半島北部でも活動する装備を有しており、重装JMATという名前がついていたが、実際には2月9日から11日までの3日間、金沢市より南部の支援をされた。次に三田尻病院から整形外科の宮崎先生をリーダーとするチームが出動した。このチームは通常型のJMAT編成であったが、金沢市より南部の支援を2月11日から13日の3日間担当された。
 石川県では避難所が1次、1.5次、2次の3つのカテゴリーに分けて運営されていた。1次避難所は被災地内の施設等を使用しながらのものが多くあったが、環境が過酷であったため、早期に被災の少なかった地域の大規模な施設に避難集約をした。これが1.5次避難所である。さらに被害の少なかった、もしくはなかったホテルや民泊、アパート、民家を借り上げて、2次避難所としていた。
 われわれが出動した2月の時点では、2次避難所へ避難されている方の健康管理や必要最低限の医療行為をJMATが主に担当している状況であり、先ほどの2つのチームは各避難所を巡回して被災者の疾病のみならず、困っておられること等の情報収集を行い、場合によっては最低限の医療行為を行っていた。
 私は統括JMATとして、調整支部の運営を行うために、2月22日に県庁入りをした。
 2月23日には周南記念病院の麻酔科である堤先生をリーダーとする下松医師会JMATが到着された。当チームは従来型のJMATであり、通常は避難所等を回っていただくが、私が調整支部に入っていたため、急遽、支部運営を手伝っていただくこととなった。支部の運営は先に入られた岡山県や宮崎県のJMATより引き継ぎ、その後、福島県や愛媛県のJMATにお手伝いをしていただきながら、最終的に福島県に移行するという形で仕事をさせていただいた。この際、私としてはもともとやっていた統括DMATや山口県災害医療コーディネーターとしての経験が活かされたものと思っている。
 能登半島地震でのJMATの支援は、石川県医師会をトップとし、その指揮下に県庁内に石川県JMAT調整本部が設置された。そこから能登北部調整支部、能登中部調整支部、そして金沢以南調整支部の3つのブロックに分けて、全国から多数のJMATに参加していただき、運営された。私自身は金沢以南調整支部の支部長として、金沢市、小松市、加賀市などの2次避難所を中心に支援を行った。
 私がやっていた統括JMATとしての活動は、全国から集まったJMATを各所に派遣し、情報収集をはじめ、整理、分析をした上でニーズの把握を行い、適切な支援活動を立案し、各チームに伝え、実行していただくという仕事を行った。その際に上位本部である組織や各地の保健所と情報共有、連携を図るべく、定期的に会議を行った。
 山口県から出動したJMATに通常、重装、統括という言葉がついているが、ここで用語の整理を行う。能登半島地震では初めて重装JMATが作られた。重装JMATは、能登半島北部の支援は交通の寸断もあり、支援者に対する衣食住の提供もかなり困難な状況にあった。熊本地震以後の地域災害でもJMATは活動し、経験は積んでいるが、このような過酷な環境下での支援の経験は乏しく、能登半島北部への支援は経験を積んだチーム編成を要すると、日本医師会は判断した。そのため、より過酷な状況下での支援の経験のあるDMAT隊員等を中心とした構成をしているチームを重装JMATとし、北部に派遣した。それから、私がやっていた統括JMATとは、日本医師会でJMAT研修を受けた上で統括研修を受けた隊員をリーダーとするチームに対するカテゴリーである。情報の把握や評価を行い、日本医師会に発信するとともに、現地に多く集まっているJMAT活動を総括する。
 災害医療においては、DMATをはじめ、日本医師会のJMAT、日赤の救護班、自衛隊の救護班をはじめ、多数の医療支援団体が一度に集まり、支援を開始する。その中でJMATの役割は日本医師会で取り決めており、多岐にわたる支援を想定している。当然のごとく、医療支援や健康管理、公衆衛生支援も行う。それから、日本医師会が派遣するので、被災地の医師会の支援や、場合によっては被災地の行政の支援も行う。可能な限りではあるが、検視や検案等も行っている。
 大規模災害時には、超急性期には地元の医療機関の先生方が自然と多大な労力により支援を開始されると思うが、同時に、その先生方やスタッフは被災者でもある。そのため、体力的にも物資的にもすぐ疲弊してくる。そこに防ぎ得た災害死が発生をすることが以前から分かっているが、そこに一気にDMATを参集させることによって組織的に災害医療を展開することにより、防ぎ得た災害死を低減していく。その後、徐々に救護班が現地入りし始めるが、災害医療が整理され、ニーズ等がはっきりした時点でDMATは救護班に災害医療移管を始める。救護班の大きな役割は、防ぎ得た災害関連死の低減だと感じている。ただし、救護班はJMATのみならず多種多様の団体が集合するため、これらを適材適所に分配をする仕組みがなければ混乱するだけで、私が任命をされている災害医療コーディネーターは、そういったものを整理し、適材適所に反映していく仕事である。
 大規模災害時には、県庁内や各地域で展開される保健医療福祉調整本部が災害医療コーディネーターやDMATを中心に構築される(構築のお手伝いをDMATがさせていただく)。山口県庁では、この調整本部の名前が災害救助部と命名されている。以前は、DMATは72時間で撤退することが多かったが、今は災害のニーズが変わっており、今後は一定の安定化が見られるまで、2次隊、3次隊とDMAT支援は継続して、ニーズの整理ができたところで、JMAT等の各専門医療資源につなぐように変わってきている。
 われわれJMATの大きな使命は、災害関連死の低減である。能登半島地震での直接死は228人だが、その後、災害関連死が増え続けており、令和6年12月中旬の報告によると、261人まで増えている。これまで、大きな震災を何回か経験しているが、その際の関連死と直接死は、平成7年1月の阪神・淡路大震災では直接死が5,483人、関連死が919人、平成23年3月の東日本大震災では、直接死が15,954人、関連死が3,576人、平成28年4月の熊本地震では、直接死が55人、関連死が212人であった。大規模災害は起こるたびにその特徴が異なっており、それまで得た経験が必ずしも次の災害に活かされるとは言えないが、災害関連死が東日本大震災以降、非常にクローズアップされ、確実にカウントされるようになったため、増えているように見えているのかもしれない。しかし、災害関連死は決して減っていない。
 最近の災害医療では、直接死、災害関連死というワードに加え、コロナ禍より「悲劇の低減」という言葉が出てくるようになった。この悲劇というのは、地元ではなく被災された方、それから罹患された方が地元ではないところへの移動を余儀なくされる。知らない土地での生活がなじめないために、いろいろな影響が起こり、それが元で知らない土地で命を落とすという悲劇が多く見られてきた。それを低減したいというのが今の災害医療のトレンドとなっている。まさにこれがJMATの使命だと私は感じている。
 最後にJMATとは、日本医師会の要項に書かれているが、被災者の生命及び健康を守り、被災地の公衆衛生を回復し、地域医療の再生を支援することを目的としている。すべての参加者がそれぞれの職種において、プロフェッショナル・オートノミーに基づいて参画している。東日本大震災以降、災害時には多くの救護班が駆けつけるようになった。日本医師会の災害支援の最終目標は、被災地に地域医療を取り戻すことである。

質疑応答

質問 実際にJMATで活動した中で特に印象に残っているエピソードなどがあれば、教えていただきたい。

豊田先生 石川県は南北に非常に長い県で、大きな被害を受けたのは能登半島の方々であった。能登半島以外でも液状化など被災されていたが、都市部ではすぐに通常の生活が取り戻され、そこへわれわれが支援に入ったので、県の中でも地域によって温度差が非常に大きかったことに難しさを感じた。地域の人たちの活動の邪魔にならないようにしながら災害支援をすることの難しさは、いまだかつて感じたことがないものであった。この難しさは各チームが派遣された先で受ける言葉に込められており、ストレスを感じたチームもあったが、私はその支援をするチームをまとめる立場として、どのような言葉をかけられようとも、JMATの役目は、被災をされた人たちの健康管理が中心となっていかなければならないので、何があってもどこにでも駆けつけて、いろいろなことを聞いてきてほしい、それが医療に関係なくても、何かのキーワードにつながることがあるので、ありとあらゆることのお伺いを立てるいうことを中心に、毎日のようにお話をさせていただき、派遣させていただいた。石川県の人たちが言われた言葉の中で一番印象に残ったのは、「被災地は北部であるが、被災された方々が南部に流れてきたことによって、南部も大きな被災地である。」だった。金沢市以南を担当するチームには常にこの言葉を伝え、支援の大事さを伝えた。

質問 JMATはどういう流れで派遣が決まっていくのか。どこから要請があるのか。また、能登半島でのJMAT派遣は去年の2月のみだったのか、その後もあったのか。

豊田先生 JMATの仕組みとしては、被災地の医師会、特に県医師会から日本医師会に要請が出て、そこから各都道府県医師会に派遣要請が出る。災害の規模によって、近隣だけで済ますこともあるが、今回のように大規模に、全国に広がって募集をかける場合もあるかと思う。
 それから、JMATの取り組みは熊本地震の時からかなり変わってきている。当初はJMATの活動は災害の亜急性期、急性期から慢性期にかけて特徴的な動きをするチームと言われていたが、それだけでは成り立たなくなった。先ほど少しお話をした先遣JMATという人たちがおり、今回の能登でも私はDMATとして1月11日から1週間近く穴水に入ったが、穴水にも兵庫県のJMATが私と同じ本部にいた。かなり早い段階から少数ではあるが、JMATは活動し始めることがある。ただし、JMATの多くの先生たちは亜急性期から慢性期にかけての活動の方が得意な先生が多い。1月下旬ごろから徐々に活動が活発になり、私の知る限りは3月下旬ごろまで大きく活動していたように思う。

加藤会長 補足させていただくと、県から県医師会へ要請があった場合も出動することにもなっている。


質問 能登半島地震以前のJMATやまぐちの活動歴を教えていただきたい。また、先ほどDMATと災害医療コーディネーターとしての経験が活きたとおっしゃられていたが、それはどういう部分で、そうでなければできないと感じたのか。過去の経験等を踏まえて教えていただきたい。

豊田先生 JMATやまぐちの今までの活動経験だが、先ほど加藤会長が言われた東日本大震災が最初である。東日本大震災の際は、トータル5チームが出動しているが、そのうちの3チームが私で、最初にクリニックの先生をリーダーとした混成の1チーム、その後に宇部記念病院の1チームが入り、その後私をリーダーとした三田尻病院のチームが3回(医師以外の隊員は交代)の全5チームが出動した。熊本地震の時は、亜急性期に先ほどの宇部記念病院のチームが先遣隊として入った後に、2チームが南阿蘇に入った。それから、最後が能登半島地震である。山口県内では、今のところ大きな災害がないので、組織立ってやったことはない。
 それから、私の統括DMATや災害医療コーディネーターの経験、知識が活きたというのは、県庁内でJMATの人たちが多数集まってきて、それをどのように、どこに配置するかということである。どこに結びつけて活動していただくのかは、知識や経験の少ない人とは違っていたと思う。JMATはまだ生まれて日が浅いことと、経験が少ないために、一人一人の思いは強い。非常にいいチームだと思っているが、それをまとめる力がまだ弱いと思っている。そこは国が作っているDMATの組織とはまた違っているところがある。しかしながら、そこにわれわれのようなDMATも経験している人間が少しお手伝いをさせていただくことによって、全体的なことが上手くいくようになっていることも事実だと思う。別にDMATだから、JMATだから、日赤だからといって垣根を設ける必要はなく、同じベクトルなのでみんなが顔の見える関係の上で統括していく人間をいろいろなところで作っておくことが非常に大切だと私は思っている。実際に東日本大震災、熊本地震、今回の能登半島地震でも、行った先々で知った顔がいる。JMATもDMATもいろいろな研修を行っているので、そこで知っているメンバーがいる。そういう人たちを知ってるだけで、物事がスムーズに進んでいくことはここ十数年、ずっと感じている。

質問 山口県からは何人が派遣されているのか。また、重装JMATはDMAT経験者が入ることが多いと言われていたが、今回派遣されたJMATやまぐちの重装JMATはDMAT経験者が何人おられるのか。

豊田先生 三田尻病院のJMATの2チームはそれぞれ違うメンバーである。中にはDMAT隊員もいるが、JMATだけで登録されているメンバーも多く含まれている。私が行った三田尻病院の2チーム目は、医師とロジがDMATで、看護師1名は現在はDMAT隊員になっているが、当時はDMAT隊員になる直前であった。また、重装JMATを掲げている長門総合病院のJMATは、4人ともDMATでもある。東日本大震災の時、私がまさしくそうだったが、DMATとして能登に入りたかったが、漏れてしまい、何かしたいという気持ちが非常に強く、山口県からJMATとして出動した。通常JMATとして出た三田尻病院の1チーム目は、医師はDMAT隊員であった。

質問 この4チームは全て金沢以南調整支部に含まれていたという理解で間違いないか。

豊田先生 そうである。重装JMATとして登録した方は本当なら北部まで行きたかったと思われるが、山口県に対するニーズは金沢以南にあるということで、納得していただき、仕事をされたと聞いている。

質問 重装JMATを山口県から派遣するにあたって、具体的にどういう動きをされたのか。重装JMATの詳しい活動内容をお伺いしたい。

豊田先生 彼ら(長門総合病院のチーム)は重装JMATとして派遣したので、一度、金沢県庁に集まり、そこから仕事をいただくのだが、その時点で重装JMATとしての仕事はないことがわかり、通常JMATと同じ仕事になった。彼らとしては非常に残念な気持ちもあったかもしれないが、そこが災害医療を志している人間のとてもいいところで、目の前にある仕事に自分たちの視線を変化させ、頑張ってくれた。一番大変だったチームだろうと私は思っている。業務内容は通常JMATと全く同じで、避難所を回って避難者の健康状態を確認をしたり、さらなる避難者がいるかいないかというデータまで拾って帰ってきて、共有させていただくという仕事を真摯にやってくれた。

質問 冒頭の加藤会長の挨拶で、災害が起こった時の備えになるということをおっしゃられていたが、山口県で今後大きな災害が起きたときに、どういったことが必要になるか。また、今回の派遣が山口県にどう還元できるかをお聞きしたい。

豊田先生 非常に難しい質問である。何を準備していくのか、まさにそこだと思うが、まずは、山口県で動ける救護班がどのようなものがいるのかということを全てのチームが知っておくことが大切である。山口県は顔の見える関係が構築されており、いろいろなところでDMAT、JMAT、行政が関わって一緒に仕事をすることが多いので、そこはあまり心配ないのかもしれないが、すべての医療者がわれわれの活動を知っているわけではないので、これから力を入れて広めていく必要がある。
 それから、医療者だけで災害医療ができるわけではない。行政や一般企業の方たちとのつながりも非常に大事だと思っている。私がDMATで支援した石川県の穴水では、街ぐるみでみんなで顔が見える関係ができており、感銘を受けた。今回、新型コロナにおいて、われわれ医療者は、行政やいろいろな人たちと繋がることができた。その経験がこの能登でも活かされているのだが、これらをさらに熟成をさせ、山口県のためにわれわれが何ができるのかを考えていくことが大切だと思っている。

加藤会長 先ほど、先遣JMATという話あったが、これは地域の医師会からなるJMATが、災害が起きたところの情報をいち早く伝えて、どういう支援が必要かという情報を発信するという役割がある。
 今、JMATに登録されている方が197名おられ、すべての医療圏でJMATに登録されている方がおられるので、どの程度、組織立った動きができるかはまだわからないが、そういう方たちが実際に災害が起こったときには役に立っていただけると思っている。

 

質問 JMATの考えとして、他県(遠方)から派遣するのが基本なのか、県内からの出動もあり得るのか。

豊田先生 災害の規模によって、それが局地災害なのか、広域災害なのかによって判断しなければならない。地域だけで済ます場合や、例えば山口県での大規模地域災害でいえば、DMATは中国地区、愛媛県、福岡県という近隣の応援部隊が駆け付けてくる。JMATも同じように日本医師会の方で調整されると思う。実際に熊本のときは、当初は九州内だけで対応していたと記憶しているが、その後、だんだんと広がっていった。

質問 山口県内の西や東の局地での災害に、県内から出動することはあり得るのか。

豊田先生 山口県であれば、山口県医師会として県内のJMATを動かすが、広島から来る人たちがいてもおかしくはない。近くの人がお互いを助けるというところでは、これは県医師会の仕事であると思うが、広島県にお話をさせていただき、広島県からお手伝いに来ていただくということは可能だと思っている。

質問 今回の統括JMATの活動を通じて、何が課題と感じられたか。また、JMATやまぐちとして、今後どういったことに力を入れていくとお考えか。

豊田先生 JMATは日本医師会のチームであるが、各都道府県医師会にチーム編成や育成等は任されているところがあり、各県で特色があるのは事実である。ただ、現地で会うとどのチームも思いは同じである。災害時に何が一番大事かというと、本部運営、指揮命令系統の一番トップの仕組みがしっかりとしていなければ、末端までうまく動けない。そういった仕組みを、日本医師会として今後、強化していかないといけないのではないかと思っている。それから、日本医師会以外のチームも同じことを思っているが、情報の伝達と共有できるツールにIT化を進めてはいるが、今のところバラバラのツールを使っており、統一が取れないために同じ仕事を別のチームが行うなど、仕事の整理がうまくいかないのが好ましくないところだと思っている。山口県で派遣後に研修会を2回開催しているが、情報伝達や本部運営について、他の医療団体との連携の訓練を、山口県では加藤会長のもと進めさせていただいている。

加藤会長 少し補足させていただくが、私の病院も災害医療訓練をやるが、いろいろな情報が入ってきたときに、いつ、どういうことがあり、どうなったかが時系列できちんと整理されてないと、的確な対応ができない。これをクロノロジーと言うが、こういったことが十分にできてなかったことが分かり、今回のJMATやまぐちの研修ではクロノロジーの研修をした。
 IT化の話が少し出たが、災害時にはマイナンバーカードを用いた診療/薬剤情報・特定健診等情報が閲覧できるようになる。マイナンバーカードはなかなか登録が進んでいないが、今回の地震においては、IT化の恩恵を受けていると思っている。本当は全国共通のカルテができて、日本全国からその医療情報に到達できるようになれば、いろいろな支援は可能だと思っている。台湾などはどこからでも医療情報を見れるようになっており、デンマークや一番有名なのは、エストニアなどだが、日本はまだ、残念ながらそこまで進んでいない。そうなっていけば、災害医療においてもIT化が十分に役立つのではないかと思っている。

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